2011/03/19

Acclaim Collective (A) Statement: PUNKS AGAINST G8 (Japanese)

Punks Against G8

Punks Against G8は、Acclaim Collective (A) の反G8プロジェクトである。このプロジェクトは、2008年7月北海道・洞爺湖でのG8──金持ちどもの野蛮な会議に抗議するために始動した。そして私たちは今後も継続されるG8会議に対する闘争にパンクスとして加わり、この闘争をパンクスとして支援するためにこのプロジェクトを継続させていくつもりだ。パンクスは世界中でG8に抵抗し続ける抵抗者たちと同じように、G8に抵抗する理由をもった紛れもない一部である。それが ”Punks Against G8” と名付けた理由である。また私たちはなぜG8に抵抗するのかをある程度明確にしなければならないだろう。G8に対する闘い方を知るために。このプロジェクトはそれを共に探求していくものである。


ご存じのとおり、G8に対して毎年のように大規模な抗議行動が行われる。G8を阻止するために毎年のように抗議者たちがG8の会議場に接近しようとする。G8のない世界を創造するために毎年のように抗議者たちがG8を象徴的に破壊しようとする。だが考えてみてもいいかもしれない。毎年行われる抗議のときだけでなく、G8に象徴される「グローバリゼーション」がこの世界において姿形を変えどのように存在し、私たちをどのようにさせているかを。そのことは、G8に抵抗する抗議者たちがG8の「なに」を破壊しようとしているかを理解し、G8に関心のない人々 (もちろん彼らもG8と無関係ではない) を繋ぐ糸口になるかもしれない。G8と私たちの距離は近いようで遠い。G8と私たちの距離は遠いようで近い。


G8と私たちの関係性を簡潔に言い現わすなら次のようになるかもしれない - 「奴らは少数、私たちは多数」である。こうした金持ちどもの支配階級 (たった8人) の真の目的が私たちの分断・敵対であるように、奴らは本来「多数」であるべきの私たちに「少数」の論理──すなわち弱肉強食・自己責任・市場経済といった「選ばれしもの」を至上とする新自由主義を世界規模で合法化しようとしている。これが奴ら──新自由主義者たちの「グローバリゼーション」である。その悲惨な結末は「選ばれしもの」だけが生き残り、それ以外のものはクズ同然残るは「死」といった私たちのこの差別的な競争社会を見渡しても既に説明するまでもないだろう。


私たちが生きるこのような社会を注視すれば、実に広範にわたる新自由主義者たちの政策が私たちを分断・敵対させていることが少しずつ見えてくる。人種差別──「不法」とされるあらゆる人々に対する国境の封鎖。搾取──「指導者」にとって都合のいい労働/生存の強要。弾圧──「反テロ」法に基づく警察国家化。セクシズム──いまだ女性やクィアを苦しめているジェンダーロール。社会隔離──社会福祉切り捨てによる「健常者」と「障害者」の分類。そしてこうした分断・敵対に基づく社会に「生きづらさ」や「息苦しさ」といった私たちの「違和感」が生じてくる。またそれは「自殺」というこのシステムの殺人に利用されもする。しかもこうした「違和感」は人々の間で共有されることもなく、人々の間で越えられることもない。新自由主義の合法化とは、「偽り」を承認するための私たちの「沈黙」に依拠しているからだ。人々はいっさいの「違和感」に嘘をつき、沈黙してしまうのである。「選ばれしもの」になるためには「違和感」などと言ってられないからだ。


G8の問題点として、「グローバル資本主義」の象徴、「トップダウン」の象徴、「贅沢三昧」の象徴などがあげられる。これらはG8の構成要素を成すものである。そしてG8の「根底要素」を成すものとして、「壁」の象徴がそこにあるだろう。なぜなら奴らの会議場には常に「壁」がある。この「壁」は奴らのあらゆる嘘を隠ぺいし、私たちの分断・敵対に深く繋がっている。言うまでもなく、「壁」は一切の視界と感覚を奪ってしまうものだ。つまり奴らが身をかくまい、みずからを守るその「選ばれしもの」の「壁」は私たちの「違和感」を見えなくさせる闇のなかで、この社会のいたるところと私たちの心のなかに建設されているということである。もう理解できるかもしれない。この「壁」をいかに私たちと結ぶかがG8に対する闘い方を知るためには重要になる。


G8に抵抗することは私たちがこの世界でどう生きていくかを決定することを意味する。と同時に私たちがこの世界でどのような存在かを認識することも意味するだろう。とりわけ日本のような帝国主義国では。私たちはまごうかたなき「多数」である。だが、まごうかたなき「少数」の支配的秩序のなかに形成された「多数」である。他者を踏みつけて成り立つG8の世界に対する闘いはこの認識からしか始まらない。つまりそう認識することにおいてはじめて、私たちは「奴らは少数、私たちは多数」となるのである。「少数」のG8に対する闘いとは、奴らの「壁」を壊し、その向こう側の「多数」の他者=「私たち」に会いにいく闘いなのだから。


G8に抵抗せよ。


Acclaim Collective (A)

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