2011/10/24

Why Resisting the European Union?

欧州連合に何故抵抗するのか?

(略)

2001年6月、スウェーデンのイェーテボリで欧州首脳会議があった。木曜日、ある学校で、警察はばかげた理由で400人のデモ参加者を逮捕しようとして失敗した。金曜日には1万人ほどの人々がデモに参加していた。デモが始まって20分後、警察隊による攻撃が始まった。警察は、スチール警棒・警察馬・警察犬を使って、デモの一部を残りの部分と分断しようとした。警察に対する戦闘的防衛がおこなわれ、一時間以上にわたる路上での戦いが市の中心街で行われた。この出来事の舞台だった街路は、暴動以前にも最も贅沢で派手な通りだったが、一時間後には破壊され、火を付けられ、取り壊されてしまった。相当数のブタどもが、その仕事を行おうとしているときに怪我をしていた。その日遅く、警察は、「路上の奪還」パーティーを攻撃した。攻撃された側が反撃しているとき、一人のデモ参加者が腹部を撃たれ、もう一人が足を撃たれた。これは、欧州の反資本主義抵抗運動に対する警察の暴力を示した劇的な事件である。土曜日には、3万人以上の人々が現れた。週末に起こったこと全ての後であっても、怒り、決然とした多くの人々がいたのだった。そうした人々は様々バックグラウンドを持ち、年齢もまちまちで、最大の警備を敷いた要塞の駕篭の中で論じられている考えに対する反対意見を声にしようとしていたのである。

希望vs幻滅...

そこには俺もいた。そうなんだ。自分がやったことや自分が何者かなどそれほど重要じゃないから、俺がそこにいたのは理由があってのことだとしか言えない。多くの理由があったのだ。EUが確立しようとしている基準は、俺に影響を与えるからだ。直接的にも、間接的にも。同じような考えを持った人たちに影響を与えるだけでなく、全ての人々一般に影響するんだ。人的資本として人間をどのように利用するか、という資本主義の論理を人々に課すはずなんだ。そんなのにはウンザリなんだ。

もちろん、抵抗者であることは楽しいんだ(いつも楽しいものだったしね)。一般に広まっている考えと標準に敵対し、怒り・フラストレーション・絶望をぶちまける。こうしたことが、他人が「現実」だとか「人生」だとか呼んでいる状況下で俺が生きている一瞬一瞬を絶えず悩まし続けているんだ。警官が血だらけになっているのなんて構やしない。窓ガラスを壊したり、バリケードを燃やしたりするのも構やしない。今は、俺たちがそうするのには、イカれてしまうのには、大暴れするのには、理由があるってことをはっきりさせる時なんだ。何てったって、現実ってやつは俺たちを生から引き剥がし続けているんだからな。これにだってウンザリなのさ。

俺たちが許されているのは、単調な生活をすること・消費すること・働くことだけだ。生きる事じゃない。俺たちを抑圧していることに対抗して意見を言う事じゃない。テレビのコマーシャルだとか、金を出せば買えるちょっとした自由の代用品とは異なる思想・希望・夢を持って、自律的で自己決定した生活を送る事じゃない。充分悲しいことだが、病的で眉睡な所有・ジェンダー・国籍といった基準が俺たちの頭の中に植え付けられている。だが、今は、少しずつでも自由になるときなんだ。自分自身になるため、生きるために。

俺の家にはガサ入れがあった、現在、公判を待っているところだ。多くの人たちと同じように拘置所に拘留されることになるだろう。何かやらかすぞと脅かしただけでなく、非の打ち所のない近代ヨーロッパの顔に「クソッタレ」を叫んだために拘留されるだろう。でも、そんなの問題じゃない。後悔はしていない。自分が何のためにそれをしたのか知ってたし、リスクがどのようなものかも知っていた。当局側がその暴力をどのように正当化してこようとも、犯罪者にされるのは俺が最初じゃないし、最後でもないだろう。

だが、俺たちが自由になり始めれば、人生は魔法になりうるのさ。


This text was taken from The Now-Denial / Highscore - "hope vs. disillusion pt.2" split 7" (benefit for the criminalized people of the gothenburg protests against the european union)

(Tomte Tumme Tott / Repulsive Force) 2002

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