2011/03/03

No Feminism Without Class Struggle No Class Struggle Without Feminism - PROTESTERA

階級闘争なくしてフェミニズムなし、フェミニズムなくして階級闘争なし

スウェーデンの人々は「世界一平等な国」に住んでいると言う。この幻想は、すべての子供たちが場を保証される育児休暇や育児サービスを有料提供するといった、私たちがいわゆる福祉国家を持っているという事実に主に基づいている。ゆえに、1990年代後半のスウェーデンの女性は、社会がこの種の「サービス」を提供していない世界の別の地域よりもなおさら雇用を持つことができた。

地位を得るための女性の闘争は、女性が自立することで、彼女らとその子供たちをサポートできた男への依存を避けるためのアイデアと手を結んできた。しかし結果はなにか別のものだった。

もちろん、それは労働者階級の女性のますます多くが生産に貢献し利益を上げるべきだという資本家のためにあった。だが、女性は生活空間を増やすかわりに、結局ふたりが賃金を得るために働かなければならない
状況に行きつくはめになっているし、いまだに子供と家庭に対する単独責任がある。女性の仕事量は増えたが、自由は具体化していない。スウェーデン及び世界中の女性は、肉体的に困難な仕事で働くことを強いられ、一般的に男性よりもかなり低賃金だ。さらに多くの女性は生活を支えるには、まして子供を育てるには、不十分な賃金しか与えられない臨時かアルバイトのような不安定な仕事をしなければならない。

私たちはみな労働者のロマンチックなイメージを見た - 産業において仕事に従事する白人—もちろん、彼らのような労働者も存在する。だが私たちは労働者階級の視点をもっと拡大しなければならない。あまりにも長い間、左翼運動は労働者階級の男性に焦点を当ててきた。だがもう労働者階級の女性が生きる地獄を無視するのをやめるべきときだ。介護と保育は多くの場合産業労働と同様に、休む間もなく疲れるハードな仕事の例である。そしてこれらの仕事は多くの場合女性で占められる。世界各地の労働者階級の女性は同じ種類の問題に直面している。家庭と子供の世話に対する単独責任があるうえに、賃金が多くの場合とんでもなく低い仕事であくせく働いている、という。フェミニズムは階級闘争の一部であり、階級闘争はフェミニズムの一部であり続ける必要がある。残念ながら今日、私たちはいくつかのグループにおけるフェミニズムに階級分析がないのを見ることができるが、そのふたつが非常に密接に結びつけられるなどとは、私たちにとっていまだ考えられないことなのだ。男女平等の権利のための何10年もの闘いの後に、私たちはいくばくかの勝利を得た。だが資本と家長制がいまだ支配している。これを変えることができる唯一のものが社会革命、つまり労働者階級のための革命だ。

フェミニストの闘いは女性のためだけの闘いではない。男と同じように、反セクシスト的な社会のための闘いを傍観して、放棄して、女性の活動家に任せることなどできない。社会主義社会を創設するためにはみなが貢献しなければならない。

人々はなかでもジェンダーとセクシュアリティのグループに分類され、そこでは男性が女性を支配・管理・抑圧するために幅をきかせる。男性と異性愛は標準だ。家長制は昔ながらのものだが、それが存在しているのは社会の種類だけではない。ゆえに本質が与えられていない。

金持ちは私たちを統治する。そして私たちが抑圧者を排除できなかった最大の理由のひとつは、私たちがお互いを抑圧することに完全に専念しているということなのだ; ブルジョアは「分割統治」の原則に基づいて支配し続けている。

男性が女性も男性と対等だということを理解するなら、私たちはたんに少なくとも2倍は強くなるだろうし、ステロタイプのジェンダーロールを除去するなら、実際もっともっと強くなるだろう。ペニスを持って生まれようが、ヴァギナを持って生まれようが、私たちはおそらく人として強くなるだろう。

社会は核家族における男がどうあるべきか、子供と家庭の世話をする美しい従順な妻、といった利点とステロタイプのイメージの多くを約束する。それが彼に合致するときに彼とセックスすることになるが、こうした経験ができる男性はそれほど多くはない。したがって、「彼らの」女が問題だと信じるようになり、力によって女性をさらに抑圧することで多数がこれに反応する。
- 心理的に、口頭的に、物理的に。例外などない; 家長制が存続するかぎり、あらゆる人が潜在的な加害者やレイピストになるだろう!

男性はどのようにして家長制に反対する女性と共通の目的のために行動することができるのだろうか? 男性は例えば、グループのなかで他の男性と会って、フェミニスト文学とジェンダーの知識を受容するワークショップを組織し、自分自身の経験を含めて自己と向き合い、家長制社会における自分の場所を悟って議論することができる。これが男のジェンダーに沿って進められるなら、戦闘的な「フェミニスト」アクションをただすることは解決策ではない; 「これが悪いのだから、たわごとは破壊せよ!」(私たちはこのような行動に参加する人々を止めるつもりはないけれど、私たちが考えなければならない唯一のものでもない)。男としての反セクシズムの作業はなんらかの方法で女性の闘争を引き継ぐことではない。そしてグループはフェミニスト仲間からの批判にオープンであるべきで、彼女たちから学ぶべきである。反セクシズムに取り組む男性も女性から「信用」を得るためにこれをしようとするのではなく、しかし階級なき平等な社会のための闘争においては自分自身のためにこれをしようとすることを理解しておく必要がある。
──だれもが自由になるまで、だれ一人として自由じゃない!
This article was taken from Protestera - 01.05.1886 CD

(Halvfabrikat Records) 201
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1 comment:

  1. 訳が途中で終わってましたが、全文訳しました。

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