いまずっと大逆事件のことを考えている。
私は天皇ムツヒト暗殺計画が「企図されていた」・「企図されていなかった」ということだけを問題にしたくない。大逆事件の検挙にいたった「この計画」にかかわらず、「かれら」は確実に天皇制国家を「狙っていた」のではなかったか。
「私が如何にしてかかる重罪を犯したのであるか。」
幸徳が語ったこの言葉は「私はそのような計画は企図していない」という意味ではないと思う。なぜ国家に反対することが「私が如何にしてかかる重罪を犯したのであるか。」という意味──私はその意味をもって考えたいのだ。
「かれら」の「想い」を闇に葬らないためにも。
いかに「自分達」の問題に出来るか!?だよね、今!現在!!に生きてる者として。
ReplyDelete「かれら」を先達と思うなら。こんなある意味、勇ましい言葉を吐きながら、ビビリの自分ですがね・・・。
アナキスト和田久太郎さんは、「弱き者よ、その弱さに徹せよ」と言ったらしいけど、だからこそ!!吐きたい言葉でもありますけどね。
大逆事件で死刑・有期刑をうけたものが「社会主義者」や「無政府主義者」である以上に「なにもの」だったかが大事なんじゃないかな。そこには「社会主義」や「無政府主義」を越えた普遍的な主義や行為があったんだと思う。そして、死刑にされた一人の内山愚童が「天皇は神にあらず」と言ったように、たんに神も天皇もなかったのかもしれない。俺はこう理解するしか大逆事件との接点を見出せないんだ。それと「フレームアップ」だったから、その主義や行為を認めるというのではなくね。
ReplyDelete「弱き者よ、その弱さに徹せよ」か。
俺はそう理解することで、その意味が分かってくるような気がするよ。