2009/07/10

ミラダの強制排除と「われわれ」の憂鬱

ミラダの住人はついに強制排除されてしまったようだ。

言うまでもなく、「強制排除」はこのスクウォットにかぎったことではない。ヨーロッパにかぎったことでもない。その意味はいかなるところにおいても同様である。

唐突だが、
このように権力が我々の「居場所」を自由に決定できる社会において、きみがなぜ憂鬱になるかを考えてみてほしい。そのような社会において、我々が憂鬱になる主要な原因として、まず「居場所」を奪われることにある。人は「居場所」がないことに憂鬱になる。人は憂鬱を癒すために「居場所」を欲する。人は「居場所」をつくることで憂鬱から逃れる。つまり、ミラダの住人は権力によってふたたび憂鬱を強いられることになったのだ。

権力の「強制排除」というのは、根本的に我々を憂鬱にさせることが目的である。なぜならそれは、権力が直接手を貸さずに、いとも簡単に我々を分断できてしまう方法にもなりうるからだ。ミラダの住人に関して言えば、かれらは憂鬱を抵抗に転化させているかもしれないが、大半の人間はこの「見えない殺人」によって葬り去られる。

だからこそ我々は憂鬱に敏感にならなければならないし、またそれが自分にとって不必要なものならば、それを取り除くために闘うしかない。まちがっても、憂鬱を「バネ」に頑張ってはならない - 頑張るなら、憂鬱を「抵抗」にしなければならない。それが「居場所」の意味を理解し、「居場所」の奪還に繋がる。

Acclaim Collective (A) はこう考える。そこにミラダの住人と「われわれ」を結ぶ希望があるなら。

あらゆる「強制排除」に対する「われわれ」の反撃は終わらない。

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